異常と平常

この前、戦争博物館に行きました。
ベトナムの歴史は、戦争の歴史、です。フランスからの独立戦争に、南北内戦(ベトナム戦争)など、この200年は戦争が日常と言ってもいいくらいひっきりなしに戦争をしています。
ホーチミンの街を歩いているとその美しさに戦争の暗い陰を見ることはありませんが、それでも障害(奇形)を持っている人を見かければ、戦争から30年しか経っていないのだと思わされます。

そして戦争系博物館にて。写真の中では男も女も、老人も子供も、殺されています。人々の最期の瞬間を撮った写真もたくさんあります。必死に弟を隠そうとする小学生くらいの歳の男の子、父を殺さないように米軍に泣いて訴える女の子、恐怖で立てなくなったおじさん、みんな直後に殺されています。
それらの写真を見て「どうしてこう残忍なことができるのだろう」と思いながら、自分自身も“戦争に関する情報”に慣れて衝撃を感じなくなっていることに気づくとき、自分自身を怖いと感じます。
そういうことなのだと思います。

殺すことに慣れ、殺されることに慣れ、怒りに慣れ、悲しみに慣れ、異常が平常に変わるのだと。だから人類は何度戦争を経験してもやめることをせず、何度深く傷ついても立ち直るのですね。

街を歩いていて、40歳以上の人を見るときふと「この人たちの中にも戦争の経験が在るんだ」と思うことがあります。ダラダラしててよく笑うおじちゃんたちが、どんな恐ろしい経験を持っているかもしれない、と思うのはなんだかとても不思議な感覚です。それだけ、私にとって戦争は遠いものだから。

戦争について考えるとき、では次の戦争を起こさないために私に何ができるのか、と考えます。考えた次の瞬間、何もできないと思います。それでも戦争について知り考え続けることには、意味があるように感じます。

無関心は最大の悪、だから?

よくわからないけど、戦争について知れば知るほど鈍感になる自分の感性に嫌悪し、異常な状況に対して鈍感になっていく自分の感性に不信感を抱きながら、戦争について考え続けるのです。なんだかおかしなことだと思いつつ、博物館を後にしました。